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    房一は昨夜の使ひの者から聞いていたので、目指す相沢の家はすぐ判つた。部落に入つて間もなく、路傍に空地があつて古い酒樽が二つ三つころがつていたり、恐らく雨時にできたのだらう荷馬車の轍わだちの跡が深くいくつも切れこんだまゝ固まつていた。空地の奥には下部を石垣で築いた大きい酒庫の壁が上方に四角な切窓を並べて立つていた。空地からは爪先上りの地面がそのまゝ酒庫の横から屋敷の中につゞいて、その突きあたりには大きな材木を使つた酒造家らしい店間口が見えた。住居すまひはそこから右手へかけての棟つゞきであるらしく、前面からは塀と樹木とのためによく見えないが、この地方特有の赤黒い釉薬うはぐすりをかけた屋根瓦のぎつしりした厚みがその上に覗いていた。

    「ほう、この家鴨あひるの嘴みたやうな金具は、こりや何かな。ほう、こりやよく光る小刀だな。こんなに何本も何に使ふのかな」

    だが、あんなに身勝手を通して来ながら、それを正文が許してくれたことは少からず練吉には意外だつた。それは子供の頃から頭に沁みこみ、こしらへ上げていた頑固な気むつかしい父親とは似ても似つかないものだつた。その、子供の頃に得られなかつた正文の愛情を、練吉は大きな身体をしてむさぼり味つたやうなものだつた。この意識は彼を一変させた。彼はしたがつて、今では一面善良な大石家の息子だつた。同時に、あの永い間に受けたきびしい圧迫の記憶は、いまだに或る作用を及ぼしていた。どんなにのんきさうに帰つて来ても、一たん家の中に入るや否や、何かしらむつとした、気むつかしい、わがまゝらしい表情も宛あたかもとつてつけた面のやうに知らず知らず練吉の顔に浮ぶのだつた。

    「それあきまつてる、猟銃だもの」

    横合から冷かすやうに口を入れたのは雑貨店の庄谷だつた。痩せた上に黒く日焼けがし、固く乾いたやうな顔には小さいが白味の多い眼がいつも人を小莫迦こばかにするやうに閃いていた。彼はさつきもその眼で入つて来たばかりの房一を見、房一が挨拶すると「あン」といふやうな声を出しただけで、すぐに話に聞き入つていたのだつた。

    房一はあれから相沢の息子を診みに五六度行つた。殆どその度ごとに会つているので、相沢知吉といふ人物については一通りのことは知つているつもりだつた。同時に相沢の経歴についても聞知していた。

    それは直造が案内状を出す間際になつて心づき、入念に考へたあげくに呼ぶことにした高間房一だつた。

    神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現していた。彼は、ごくたまに目瞬きをしていたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。

    電灯のない時代はもちろん、その設備が出来てからでも、地方の電灯は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々もうもうたる湯気に鎖とざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電灯のない温泉場で、うす暗いランプの光をたよりに、夜ふけのふろなどに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところがないでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。

    「入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ」

    盛子は笑ふまいとしながら、こらへかねて真紅になり、そこにうつ伏しになつてしまつた。道平も釣りこまれて笑つた。だが、それは心持ひきつゝた痕跡の中に押しこまれたみたいになつた。彼が髯を落したのはそんなに悪戯気でやつたのではなかつたので、盛子の大げさな可笑しがりやうがいくらか気にさはつたのだ。で、彼の顔はすぐに老人らしい克明な生真面目さをとりもどし、房一の方を向いて、ゆつくり切り出した。

    それは言葉にするとこんな風なものであつた。

    と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。

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